理想的な逆転劇

 もちろん僕は、いま、これらの言葉、例えば「主体性のない文章」「匿名性」「わたしの不在」といったような便宜上の呼び名について執着しようとは思わない。僕は言葉を自由自在にあやつることはできないし、もし本当に自由自在な言葉があったとしたら、人がこれほど言葉を長く書き連ねる必要はなかっただろう。

 舞台である「大都会」が曖昧としているのは、「明治通り」や「新宿の路地裏」が書かれるときに、それら描写が一切されることがなく、「明治通り」「新宿の路地裏」といった単語が「名称」としてただ単に書かれるからであろう。

 と僕は以前に書いただろう。僕は、「大都会」が曖昧としているその理由として、「大都会」をはじめ、「明治通り」「新宿の路地裏」などといった言葉が、単なる「名称」として書かれるだけで、その描写の一切が書かれないということを挙げた。ここに問題がある。いや無い。「問題」提起しなければ書けないというのも虚しい話だ。ひとまずここに「問題」はない。書きたいと思うのはむしろ「問題」という言葉にへばり付いた意味のことである。

 ここに「社会」という言葉がある。「社会」という言葉は例えば「腐った」という形容詞と共に使うことができるが、では、「社会」という言葉それだけを見てみたらどうだろうか。「社会」とはいかなる意味で用いられる言葉なのか。形容詞なしの「社会」は一体全体どんな状態の「社会」を意味しているのか。また「社会」は、普遍的に「社会」としての意味を保ち続けているのか。そもそもこう社会社会社会と書いているうちに、「社会」という漢字が視界のなかで次第に分離して、線と線の組み合わせによる「文字」や「記号」に見えてきやしないだろうか。
 いわば、「社会」は、便宜上使われた、抽象的な物差しでしかない。「社会」とは何ぞやといった「社会」の意味を考える以前に、「社会」は「社会」という言葉であり、言葉は線の組み合わせである。つまり、「社会」という言葉には、あらかじめ意味などないのだ。『問題』は、この「言葉」を読むに際して、「言葉」と「意味」との間に厳然としてある隔絶を捉えられないことにある。「社会」は便宜上ただ「社会」と名指しされるものであり、「社会」という言葉のひとことによって「社会」という言葉の対象を言い表すことは決してできないのだ。

 ――いま、ここに、タンスのカドにアシのコユビをぶつけた人がいる。そのとき、人は「痛て」と口にするかもしれない。そのとき、「痛て」という言葉は、あたかも心身に備わった条件反射のごとき執着心のなさを露呈しながら、まるでその言葉が「本能」によって口にされるかのような身振りで、あられもなく「痛て」の演技をする。この場合、むしろその反射神経こそが、「言葉」と「意味」が密接状態にあるかのような錯覚を生み出し、その錯覚する一瞬すら、意識される間もなく過ぎ去ってしまう。外国語を使う人がそんなとき果たして「痛て」と口にするだろうかなどと問いかけるまでもなく、言葉=意味にはならないのである。
 「社会」という言葉は、それ自体ではいっそニュートラルな意味だとしてもよいだろう。「腐った」という形容詞をもってすればそれは「腐った社会」になり、「あたたかい」という形容詞を付与してやれば「あたたかい社会」となる。だが「社会」という言葉は、「社会」だけで使われるとき、《形容詞のつく必要のない》《ニュートラルな》《平凡な》《普通な》《中間の》《プラマイ0の》、奇妙な均衡をささやかに湛えてはいまいか。人がおもむろに「社会」と口にするとき、「社会」は、ある理想的な均衡の上に夢見られる《一般的な》社会として、抽象的に語られてはいないだろうか。ここで話が戻る。「大都会」「明治通り」「新宿の路地裏」といった「名称」は、「社会」という名称と同様に、《形容詞のつく必要のない》《ニュートラルな》《平凡な》「明治通り」として、自明のもとに取り扱われているだろう。

 ――「明治通り」と書いたのだから、これは僕のイメージ通りの「明治通り」だ。と作者は口にするかもしれない。だが、「明治通り」という言葉が文字通りの「明治通り」ではなく、ある理想的でニュートラルな幻想にまみれた視界に映る「明治通り」の一語だということは既に明らかだ。

 そして冊子の別のところで、作者はこのようにも書いている。

 抗いつつも、逃げながら。
 逃げつつも、抗いながら。

 要するにどっちでも同じの同語反復なのだが、しかしこの「逃げる」というニュートラルの言葉が、かなり抽象的な意味と接着されていることを見逃してはならない。ここに、作者にとっての「ニュートラル」の意味が見られるのである。「逃げる」という言葉の意味と、「抗う」という言葉の意味とのあいだに、何の摩擦もない状態。ここにおいて、ニュートラルな「逃げる」は、「抗う」こととほぼ同じ意味といってもほぼ差し支えないだろう。けして「(負けて)逃げる」の意味(敗走)では使われず、長距離選手が勝利に向かって「逃げる」ような意味で、「逃げる」は《普通に》語られる。
 この「逃げる」という言葉は、ニュートラルな意味として「戦う(抗う)」を含んでいる。だが、この「逃げる」の理想的な勝利は、例えばかつて揶揄的な文脈で使われていた《オタク/お宅》という言葉が、今では自ら「オタク」であると自称されるまでに至ったことと、近い類似点を感じないだろうか。この「逆転勝利」は、「言葉」と「意味」の蜜月が、あまりにも容易に摩り替えられ、捻じ曲げられうる仮初めでしかないことを明らかにしてはいないだろうか。この小説に「大都会」はない。あるのは、「大都会」という言葉と意味が摩り替えられ剥離してしまうその瞬間の、瞬間的であるがゆえ目にしがたい「意味」の『理想的』な運動である。

 もっともそれは、この小説に限ったことではないのだったが。