認識論的文体論

 そのような記憶を忘れないのは石だけだろう。綴られた字を読むのは誰なのか。記憶を回想するのは誰なのか。

 冒頭部。「綴られた字」は、後半「保持」されたあとの「。(句点)」が付された文章に対応しているとも読める。あるいはもっと個人的に読みを楽しんでしまうのなら、「石」が「保持」する機器であるとも読めるし、特に意図のない描写としての「石」かもしれない。とりあえずそのへんの読みは作者に倣い、書かないことで語ることにしたい。

 それより最初に戻ろう。しつこいようだが再度引用する。

 兵士はそう返しただけで、やはり職員に関心が無いのか、目も合わせずに粛々と歩き続けた。職員は鎖を結んだりほどいたりした後に、囚人に話しかけた。
「この後に取り調べがあるけれど、今やってしまおうか」
 兵士のほうからカチリという音が聞こえ、職員は
「別に取り調べは取り調べ室でやらなければいけない訳ではないしね」
 と付け足した。

 この、「兵士のほうからカチリという音が聞こえ、職員は」という描写は、たとえば写真に似ている。写真は(基本)レンズを通した一瞬の光景を切り取るものであり、ではその一瞬後というと、それは視る者の想像にゆだねられる。「躍動感のある」写真とは、そのように一瞬後が映りこまないがゆえに、視るものの脳裏にその一瞬後の動きを想起させるといったものではないだろうか。

 仮に、この描写がもっと説明的であったとするなら。

 兵士はそう返しただけで、やはり職員に関心が無いのか、目も合わせずに粛々と歩き続けた。職員は鎖を結んだりほどいたりした後に、囚人に話しかけた。
「この後に取り調べがあるけれど、今やってしまおうか」
 その時、カチリという音がした。兵士が腰に下げていた鞄から機械を取り出した音だった。

 こう書いたときに「いけない」というわけではない。けれど、この書き方をすると描写の質が変わってくるのである。というのは、この小説の「カチリ」の描写は、認識の現在形を切り取った一瞬であるからだ。この書き換えた例文、『カチリという音がした。→兵士が腰に下げていた鞄から機械を取り出した音だった。』と書くとき、後半部は前半部の音「カチリ」を振り返って説明している(時間が経っている)。つまり、一瞬前に鳴った「カチリ」の音を明らかにすると、その代わりに時間は遅滞するのであるし、読みも限定される。きっとこの文章は、そういった時間の淀みと限定的な読みを極力排除するようにできているのではないか。では


 ・わたし目がけて壁がつっこんできた。

 という一文があるとする。この文は高速道路を走行中、自動車事故に遭う描写と見てほしい。もちろん、高速道路は走っている車めがけて突っ込んできたりはしない。壁に向かって突っ込んでいるのは自分のほうなのだ。だけれど、運転している当人の視点=一瞬の認識からすれば、それはまぎれもなく「わたし目がけて」つっこんできているのだし、それ以上の認識は時間を停めてしまう。全ては書かれたままに書かれている。それは説明不足というより、書かれている以上に過剰に読まれうるのだ。作者の明確な意図や読者の答えとは全く別の、ただそこにその文字が書かれている事実とでもいったとりあえずの「意味」から離れた場所で、「カチリ」のくだりはそのように過剰な読みを誘惑するようにできているのだし、それは「文体的に」というしかない魅力的なフォルムをしているのだった。

「綴られた字」を読むのは、もしや僕ではないのか? クヤシイけど少し、嫉妬できます。