躊躇について

 問題なのは始まりである。なにかを書くにあたって僕の場合、まず最初に躊躇がある。それは後ろめたさとかそういった感覚ではなく、選択肢的な問題だ。これから僕が言葉を書く、決定済みのはずのそのことが、始まる言葉の選択如何でどのように流れうるかということ。最初の言葉に何を選び取るか、それによって如何様にも書けてしまうし、何かしらを決定づけてしまう。深遠で高尚な懊悩、そんなものを人が意識しているうちは、人はそれを書いてしまうし、「フロイト」や「デカダン」の文脈で使われるような語彙を、書く人が既に知っているというそのことが、「精神」や「退廃」の影響を文脈に義務づけてしまうだろう。いわば端的に、「自己表現」は嘘なのであるし、「私小説」は嘘である。仮に「精神」や「内面」という単語を肯定したとして、書く人は、書く人の「精神」や「内面」が「自己表現」されるまでの過程に、紙という媒体があることを忘れているだろう。「紙」に、「文字」で書かれた言葉が、現代風に言ってみれば「変換」あるいは「遮断」、とにかく、紙面の上の「言葉」として決定的に置き換えられてしまっていること、「わたしのこころ」が、既に言葉に変えられてしまっていること、そのようななかで、私的なことを書く行為そのことにいわば《生のままの》誠実さ律儀さが表出すると考える人たちには大いに疑いの余地があると思うがさておき、熟達は、書くべき対象としての「精神」をより律儀で精確な形で表現できるようになることではなくて、それとは別の上手な「言葉」として紙面の上に書き付けることであると思う。いま僕は「躊躇」によってこれを書いていて、しかしながら始まりにおけるこの「躊躇」は、『大都会交響楽』の作者にはない。