ペナ山本の『発見』

 ペナ山本という名前を付けた人物のことは何ひとつ知らないけれど、その名が何を素にして付けられたのかは知っている――現在人気急上昇の、某若手女性タレントの名前だ。ぼくはその某若手女性タレントを、何度かTVで観たことがある。

 冒頭は、「ペナ山本」という言葉の発見から始まる。「ペナ山本」という名前を付けた人物のことは何ひとつ知らない「ぼく」の告白は、たった三行で終わってしまう。ただし「ぼく」は、「ペナ山本」の名付け親については知らないが、「某若手女性タレントの名前」についてはおおよそ見当がつくという。以後、「ぼく」はこの小説には現れない(あるいは現れているのかもしれないが、特定されるように書かれていない)。この冒頭は「謎=ペナ山本」を提起するという形の一種のステレオタイプであるが、それにしても「ぼく」は、「ペナ山本」についてではなく、「ペナ山本」の名付け親について述べていることに着目すべきだろう。この些細な論点のズレが、「大都会交響楽」を書かしめているのではないだろうか。つまり「ぼく」はここで、無責任な感想を述べているに過ぎない登場人物だということをも無責任に無意識に回避しようとする。次は空行を一つ置いてこう書かれる。

 ――……とまあ、こんな感じだな、今回仕入れた情報は……え?……そう言われてもなあ、こっちはこれでもさ……いやなんでもない、マジゴメン……ん?……ああ、そう言ってくれるとマジ救われるわ……うん……え……うん……いやもちろん、オレだって納得しちゃいないよ……うん、言い訳するつもりじゃないんだけどさ、みんなお手上げなんだよ、今回に限って、何故か……うん……そうそう、誰に聞いてもそのひとことなんだよ……ああ、まったくどうかしてる……ん?……業界一情報通のあんちゃん……うん……そうそう、いつものね、うん……なあ?これじゃあ調子狂うよ、マジ……

 突然、ぶつ切りの形で誰ともつかない人物が誰かと会話している。前述したように、ここでは既に「ぼく」はなく、「誰ともつかない人物」が、顔の見えない「誰か」に向かって話しかけている。「誰か」の言葉はここには書かれない。この匿名性の「謎」とともに、「今回仕入れた情報」「業界」「情報通」といった思わせぶりなキーワードを提示して、また空行が置かれ以下のように書かれる。

 ついさっき――ほんの一時間くらい前のことだ。ぼくはブラック・コーヒーを飲みながら、フジヒコに渡されたメモを何度も何度も丁寧に読み返していた。――左右に傾けてみたり、逆さまにしてみたり、光にすかしてみたり、裏面にしてみたり……火であぶってみようかほんの一瞬悩んだけれど……つまりはまあ、命拾いしたかもしれない、というわけだ――いろんな意味で
(下線部は原文では傍点)

 前二つの段落の引用と、ここに登場する「ぼく」や「フジヒコ」が同一の人物であるという保証はここではされない。「二人の人物が会話する」→「メモを受け取る」という連想があるにも関わらず、まるで一個の小説の冒頭がここから書かれるがごとく、『ついさっき――ほんの一時間くらい前のことだ。ぼくはブラック・コーヒーを飲みながら、フジヒコに渡されたメモを何度も何度も丁寧に読み返していた。』という言葉が書かれてしまう。前と同様に思わせぶりな「命拾い」「いろんな意味」といった言葉は、ここでは傍点つきで強調されている。この小説において一貫して見られるのが、太字の「ペナ山本」と、傍点の「思わせぶり」である。この二つの強調において、《太字》と《傍点》の差別化が謀られているところに、作者が計算した思惑があるだろう。つまり、太字の「ペナ山本」の発見から始まり、中心にあるその謎をめぐって延々と迂回する形で書かれているかのように偽装されたこの小説は、一つ一つの断絶された段落がほとんど別個の小説のように「冒頭」を変奏し、あるいはどこかで見たような「挿入部」として実際に書かれているにも関わらず、思わせぶりの《傍点》と、ところどころ登場する「ペナ山本」が図々しくその文脈に居座ることによって初めて、「小説」と「小説」のあいだを繋ぎとめて一個の小説にしているだろう。草稿段階でこの小説を読ませてもらった僕が、高橋源一郎の『さようならギャングたち』に似ていると思ったのはそのためである。