(1)の嘘

 ところで、この小説の嘘は、未完であるということかもしれない。作者はもちろんまだ書き続ける気でいたが、時間的余裕がなかったため、中途で筆を折ることになったようだ。いずれにしろ、これが完結したかどうかは甚だ疑問である。ひとまず「物語」として書かれていないことは問題ではない。むろん「起承転結」を持ち出すまでもなく、小説は「物語」という体裁で始まるにしろ始まらないにしろ、その特性上、紙面に言葉が書かれなくなった時点で絶対に「終わる」。『大都会交響楽』においてもその「終わり」を免れることはできないが、しかしこの小説の匿名性を加味して考えてみたとき、話が少し違ってくる。<フジヒコ><キクヒト><先生>は、「ペナ山本」以外で幾度か登場する人物である。であるが、その輪郭は舞台として設定された「大都会」と同様に曖昧としたままで、多くの場合、

 しかもさっき――ついさっき、フジヒコからこんなことを言われたのだ……
 ――……いいか? オレが今から言うことを、これから絶対に守ってくれ……ああ、さもないとおまえさん、大変な目に遭うぞ……え?……いや、今回ばかりはマジでだ、冗談じゃない……ああ……おまえさん、都内から一歩も外に出るんじゃないぞ? いいか? もしこいつを破ったら……そん時は確実に、ヤラれるぞ……そう、そのまさかだよ……ああ、久々にな……例のあんちゃんの情報だから、間違いないよ。
(下線部は原文中傍点部)

 のように、人づての言葉で書かれていて、いま喋っている自分が〈フジヒコ〉であったり〈キクヒト〉であったり<例のあんちゃん>であったりすることを断言できるという場面がない。語り手が主体性を欠いているのである。また、

 大失態だ――昨日はずっと調べものをしてたんだ、〈一睡もしないで〉ね……本当だよ、信じてくれよ……――と言いたいところだけれど、そんないいわけが通用するわけがない……ぼくは《その手のプロ》であり、《先生》なのだ。そんな人間が、こんな大失態を冒してはいけないのだ……しかし本当に、本当にどういいわけすればいいのだろう?
 ――そもそも、誰に?

 あるいはこのように、自分が《その手のプロ》であり《先生》であり、匿名の《ぼく》であるかのごとく書かれていたりもする。舞台である「大都会」が曖昧としているのは、「明治通り」や「新宿の路地裏」が書かれるときに、それら描写が一切されることがなく、「明治通り」「新宿の路地裏」といった単語が「名称」としてただ単に書かれるからであろう。また、似たようで違うといった単語も多く見られる。《その手のプロ》は即ち《業界一情報通》であるとは明言されないし、《先生》と《おじさん》と《あんちゃん》に共通する『目上』の人間は、それらの個人性をぼかしているだろう。また、二人の男が会話しているというシーンの焼き直しも、同一人物とは限らない。このような曖昧とした匿名性が短編集的なこの小説を終始一貫してつらぬいていることが、ほんらい「短編集」とその「続編」、さらに「ワンシーン」を並べたにすぎなかっただろうこの「小説」群を、一つの「小説」として接着しているのかもしれない。この小説はどこで終わっているのかというと、ところどころで終わっているに違いない。それは編集作業に似ている。