無題(作家性を回避する作家性)

 そんなわけでこの「主体性のない文体」だが、これについては作者の書き分けの技巧云々というよりは、全体に渡った特徴的な筆致であると見たほうが正しいのかもしれない。冒頭部を再度引用する。

 ペナ山本という名前を付けた人物のことは何ひとつ知らないけれど、その名が何を素にして付けられたのかは知っている――現在人気急上昇の、某若手女性タレントの名前だ。ぼくはその某若手女性タレントを、何度かTVで観たことがある。

 とやかく言うなら、ここで「ぼく」は「ペナ山本という名前を付けた人物について何ひとつ知らない」というエクスキューズ付きで、間接的に「ペナ山本」の謎を提起している。ご丁寧に「TVで見たことがある」という説明付きである。そしてそれきり匿名性の言葉の中に紛れ込んでしまう。「ペナ山本」の名付け親のことを述べているはずが実のところ「ペナ山本」本人について語っているといったあたかも文体が責任を負うことを拒否しているかのような些細な論点のズレは、この後の「ペナ山本」の不在と、不在の語り手たちが目まぐるしい寸劇を演じることを許すだろう。なにしろ二段落目から行われている喜劇の切り貼りは、その脈絡のなさにおいて、「ぼく」が「ペナ山本を知らない」ことについて語っているのではなく、「ペナ山本の名付け親を知らない」ことについて語っているのだとでもいったような論点のズレから始まっているからである。読者がなんと言おうと、《これは「謎」の不在を書いた小説なのだ、したがって「わたし」はそこにいない》この種の「わたし」的なものからの回避は、「不在」についてとめどなく語るスタイルを通して姑息な「わたし」が実はいることを明かしてはいないだろうか。言いかえれば、「わたし」を不在にしようと文体が目論み多くの作家の引用や主体性のない「ぼく」、不在の「ペナ山本」が書かれることによってより一層、「わたし」が意識されて書かれていることが明るみに出るのではないだろうか。もちろん、最初に僕が躊躇いながら言ったように、対象としての「精神」や「内面」は言葉で「表現」されうるものではない。「精神」や「内面」を上手に書くということは、その再現度がより忠実になるということではなく、言葉としての「精神」や「内面」を上手に書き加えていくことに他ならない。俗に言う文章力とは、ひとえにそのことである。ゆえにこの小説は、「わたし」の文脈の前提のもと、「わたし」を抑圧した地点から始まっているのではないだろうか。答えのない「謎」が「読者」をダマす、その意図は、書いている「わたし」の文脈を免れてはいない。